新型コロナウイルス感染拡大防止のため臨時閉山していた竹田城跡が10月1日より開山したことにあわせたように雲海シーズンが到来し、竹田にも観光客が少しずつ戻ってきているように思えます。
そうした中、竹田城跡や雲海とは違った竹田の魅力にスポットを当ててまちを散策したいと思います。
散策の楽しみのテーマは「絹屋溝」です。
竹田の町は、過去から大火事や大洪水などの大災害に遭ったそうです。
1824年(文政7)に発生した大洪水をきっかけに、絹屋治左衛門が私財を投げ打って、治水と防火用水を確保しようと用水路を整備したそうです。
江戸時代から現在に至るまで竹田の人々の暮らしを支えてきたことを讃え、この用水路を地元では「絹屋溝」と呼んでいるそうです。
竹田の城下町を流れる絹屋溝は、城下町から1kmほど上流の地点で円山川から水を取り込んでいます。
円山川から取り込まれた水は、川沿いの水路を流れて城下町へと向かいます。
城下町に入ると、ところどころに洗い場と思われる階段があります。
昔から絹屋溝が生活に密着していたことがうかがえます。
上町との接点となる金比羅神社辺りで左右二方向に分かれ、一方は、竹田城跡の麓側である寺町通りへ、もう一方は、但馬街道を横切り上町、旭町へと流れていきます。
堰を設けず勾配だけで左右の水路に水を振り分けており、当時の高い技術力を感じさせます。
絹屋溝の分岐点には、但馬最古の石橋と言い伝えられている「恵比寿橋」があります。
1930年(昭和5)に但馬街道筋から現在地に移設されました。
但馬には江戸時代の石橋が7つ残っており、そのうち5つが竹田にあるそうです。
いずれも絹屋溝に架かった橋で、恵比寿橋とこれから紹介する4つの寺院の石橋です。
分岐点から最初に竹田城跡の麓側である寺町通り方面へと辿って行きましょう。
手前がJR播但線、向こう側に小さく見えるのが先ほどの恵比寿橋です。
JR播但線を横切った絹屋溝は、表米神社の前を流れていきます。
表米神社の境内には全国的にも珍しい相撲桟敷が残っています。
竹田城跡の麓側へと流れる絹屋溝は、松並木が美しい寺町通りへと続いていきます。
寺町通りは、かつての武家屋敷跡であり、4つの寺院が移設され、竹田の城下町を象徴する景観です。
境内に保存している石橋の橋標部には「享保十七年」(1732年)の文字が刻まれています。
常光寺は、初代城主・太田垣光景の菩提寺です。
太田垣光景は、土塁をもとにした初期の竹田城を約13年の歳月を費やして築いたと伝えられています。
紀年銘のあるものでは但馬最古の石橋で、「宝永四」(1707年)の文字が刻まれています。
恵比寿橋と同時代の造立と推定されています。
法樹寺は、竹田城最後の城主となった赤松広秀の菩提寺です。
赤松広秀は、現在残っている竹田城跡の石垣を整備したといわれています。
門前堂内の架橋標に、「享保八年」(1723年)の文字が刻まれています。
松並木、白壁、絹屋溝から聞こえる水の音など風情あふれるまち並みですが、絹屋溝を泳ぐコイがさらに彩りを加えています。
竹田城跡の駅裏登山道入口周辺は、秋には真っ赤に色づく美しい紅葉で彩られ、紅葉の名所にもなっています。
絹屋溝はJR播但線竹田駅の裏側を流れているため、駅と調和した風景が竹田独特の雰囲気を醸し出します。
寺町通りを通り過ぎると、再びJR播但線を横切ります。
JR播但線を横切った絹屋溝は城下町の中心部へと流れていきます。
分岐したもう一方の絹屋溝は、但馬街道に向かって流れていきます。
但馬街道を横切った絹屋溝は、竹田まちなか観光駐車場の横を通り、上町、旭町へと流れていきます。
竹田まちなか観光駐車場を過ぎたあたりからは道路の下を流れているため、水の音を聴きながらの探索です。
しばらく進むと城下町の中心部で分岐した絹屋溝が合流します。
城下町を流れてきた総延長580mの旅は、諏訪橋の北側で円山川へと流れゴールを迎えます。
「天空の城」で全国的に有名になった竹田城跡の麓には、城下町として栄えた町並みが今も残されています。
絹屋溝を辿っていくと、当時からの人々の暮らしに触れながら散策を楽しむことができます。
これからのシーズン、雲海、紅葉などで朝来市を訪れる際には、ぜひ竹田の町並み散策も楽しんでいただければと思います。