兵庫県豊岡市日高町の国府地域は、ちょうど出石と豊岡・城崎に向かう分岐点にあることから、古くから交通の要衝として多くの人々が集まった地域です。
また、「府中」や「国府市場」などの地名が古くから伝わっていることから、但馬古代史最大の謎とも言われる但馬国府があった場所なのではないかといわれています。
古(いにしえ)の世界を想像しながらJR国府駅から府市場地区周辺までを歩きます。
JR国府駅は豊岡市日高町の上石地区にあります。
1948年(昭和23)40年余りに及ぶ地元の熱心な請願運動により開業にこぎつけた駅です。
国府駅の設置については、戦前から何度も請願が出されていましたが、戦後の1947年(昭和22)に敷地の提供と建物工事等を全額地元が負担することで、駅の設置が決定したそうです。
プラットホームや駅舎の建設にあたっては、周辺の人々が出役したり、盛り土などの材料を周辺で調達するなど地域ぐるみで作り上げた駅と言えます。
1970年(昭和46)、無人駅となり、開設当時にあった駅舎はなく、直接階段を登ってホームに入る形となっています。
また、2番線ホームには、線路下にある写真のトンネルを通っていきます。
国府駅の前にある道をまっすぐ歩くと国府駅前交差点の信号にたどりつきます。
国府駅前の交差点を右折し、国道312号線沿いを南向きに進みます。
国府駅前から国道沿いの歩道を進むと、左手に府中小学校があります。
世界で初めて五大陸最高峰の登頂者となるなど数々の冒険を成し遂げた冒険家・植村直己さんの母校でもあります。
同じく植村さんの母校・明治大学で開かれる植村直己冒険賞の受賞記者会見の際には、例年、受賞者と府中小学校の子供たちとの中継が行われています。
府中小学校からさらに国道に沿って南下すると、堀のバス停があります。
1888年(明治21)に市町村制がしかれてから日高町と合併するまでの66年間、国府地域は「国府村」と呼ばれていました。当時このバス停付近は、村役場や診療所、登記所などがあり、国府村の中心地でした。
堀の地名は、その昔、この付近に2万㎡の大きな池があったことから命名されたと言われています。
現在は大池はなく、自然に土砂が流れてきたことにより池が埋まり水田として利用されています。
堀のバス停付近を左折すると円山川の堤防付近まで続く道があります。
この道は、かつてあった大池の南端に沿って通る出石往来と呼ばれていた道で、円山川は、渡し船で行き来をしていたそうです。
200年ほど昔には、出石の殿様が大池に船を浮かべ、魚釣りをして遊んでいたと伝えられています。
堀のバス停から斜め左向きの道は、豊岡往来と呼ばれていた道で、この付近が豊岡・城崎方面と出石方面への分岐点の場所であった事がわかります。
今回は豊岡往来であった道を進みます。
堀のバス停から少し進むと府中新という地区になり、左手に鹿島神社があらわれます。
鹿島神社の境内には、長さ約3m、幅約1.8mの花崗岩の巨石が置かれています。
この巨石は神社の西側付近から掘り出されたもので、巨石の下に埋まっていた仏像が神社の本殿に納められていると伝わっています。
置かれている巨石には直径60cm、深さ10cmほどの穴が開いていることから、奈良時代の初めに地域の有力者によって建てられた寺院の三重塔の礎石だったのではないかと言われています。
鹿島神社の本殿の裏には、広大な田園風景が広がっています。
この付近に、かつて但馬国府があったのではないかと言われています。
実際にこの場所に但馬国府があったかは調査の進展が待たれるところですが、1300年以上前の古(いにしえ)に想像を巡らせながら田園風景を眺めるとロマンを感じますね。そう考えると鹿島神社に置かれている巨石も大きな意味があるもののように思えてきます。
但馬国府とは
国府とは、奈良時代に大宝律令の体制の元で中央政府が派遣した役人が、地方官として政務を行った役所の所在地のことです。当時、全国に約70か国あり、それぞれの国に国府が置かれていました。
但馬国府は、804年(延暦23)に移転したと記録があり、移転先は現在の豊岡市日高町祢布の豊岡市役所日高振興局の西側付近(祢布ヶ森遺跡)とされています。移転する前の但馬国府の場所がどこであったのかが但馬の古代史最大の謎とされており、諸説が存在しています。
ふたたび国道312号線沿いに合流すると、国道を渡ったところにお地蔵さんが安置されています。
この脇の道を進むと次の目的地である善応寺に辿り着きます。
曹洞宗のお寺である善応寺には、味のある山門があります。
山門の額には「府一関」と書かれています。
これは関所を表していると言われ、この付近が交通の要所であったことがわかります。
善応寺から国道を少し南下したところにある瓦葺きの建物が日高府中郵便局です。
先ほど通った小学校は府中小学校で、いずれも旧村名である「国府」という名称は使われていません。
この地域は古くから府中と呼ばれており、国府村が成立した明治中期より前に作られた施設には、「府中」の名前が残っているそうです。
全国にある府中という地名は、奈良・平安時代に国府が置かれていた場所に由来しているところが多く、この周辺に但馬国府があったと考えてもよい気がしてきますね。
府中郵便局周辺の国道沿い付近は、手辺(てへん)と呼ばれる地域で、昭和30年代頃は呉服屋、魚屋、雑貨屋、傘屋などが建ち並び、ここで揃わないものはないというほどの商店街だったそうです。
また、明治~昭和初期にかけて、年に2回「手辺市」と呼ばれる市が1週間にわたり開かれていました。府中郵便局のあたりから南へ約300m、国道の西側沿いに市が開かれ、一斉大売り出しと称した店が軒を連ねて、にぎわったそうです。通常の店舗に加えて、夏は盆用品やアイスクリーム、暮れにはお節料理の材料や正月飾りなどが売られていました。
このことからも、人が集まる地域であったことがわかりますね。
国道沿いにある公民館の手前を左折します。
左折した先は、国府市場(こうのいちば)と呼ばれる地域で、手辺とあわせて、府市場(ふいちば)という地区名です。
国府市場の名称は、室町時代には存在していた地名で、古くから人々が集まった場所であることがわかります。
律令時代につくられた市場の名称ではないかとも言われ、但馬国府との関係も考えられています。
集落の中に歩みを進めると、左手に延命地蔵と呼ばれる大きなお地蔵さんがあります。
坐像の高さは2mで、但馬・丹波・丹後の「三たん」で一番大きいと言われています。
出石城下町にある見性寺の住職であった智文和尚が、隠居するときに郷里であったこの場所に建立したと伝えられています。
この地域には、観音堂、妙見堂、薬師堂、地蔵尊、稲荷宮など様々な信仰の場所があります。
その由来が不明なものが多いそうですが、それだけこの地域に各地から様々な人々が集まり、長い間歴史を刻んできたといえます。
府市場の集落を抜け、円山川の堤防近くにある神社へ向かいます。
円山川を正面に鎮座するのが氏神様である式内社・伊智神社です。
「伊智」は「市」のことで、市場に関係する神社であったそうです。
地域で古くから大事に守られているのが伊智神社の秋祭りです。
3年ごとに行われる神輿渡御では、天狗・白鬼・長刀・鉾・先箱・御刀などの行列に率いられた神輿が町内を練り歩きます。
境内には宝篋印塔があり、豊岡市日高町上郷にある満仲山の城跡から出土したものと伝わっています。
伊智神社のそばから円山川沿いの堤防に上がることができます。
伊智神社付近から階段をのぼった先がゴール地点の円山川の堤防からの風景です。
対岸には、河川に沿って東西に約1kmにわたり、近畿地方でも有数の規模を誇る河畔林があります。
新緑・紅葉・雪景色と四季おりおりの絶景が楽しめる撮影スポットでもあります。
対岸の上郷地区にある気多神社は、但馬國の総社とされており、但馬国府に国司が就任した際に参拝する神社であったそうです。その神社に近い府市場周辺に但馬国府があったとも考えられるかもしれませんね。
またこの堤防沿いには、約1200本の桜が植えられており「桜づつみ回廊」と呼ばれ、ウォーキングコースにもなっています。
国府駅付近の堤防まで約1.5km続いているので、春は桜を楽しみながら駅まで戻ることができます。
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出石と豊岡・城崎の分岐点にあたる交通の要衝であった国府の地域を駅から府市場地区まで歩いてきました。
市場が開かれるなど、多くの人々が集まって栄えた場所であったことが感じ取れました。
また、何気ない田園風景のなかに但馬国府という古(いにしえ)の存在に思いを馳せながら歩くことができるまちでした。
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