諸寄港(新温泉町)は、古くから和歌などにも読まれている名勝地です。
江戸時代には、北前船の寄港地”風待ち港””潮待ち港”としての役割を果たしていました。
今年の3月、文化庁が認定する『日本遺産』に「荒波を越えた男たちの夢が罪だ異空間 北前船寄港地・船主集落」として新温泉町が追加認定されました。
【日本遺産】・・・地域の歴史的魅力や世代を超えて受け継がれる伝承・風習など文化・伝統を語るストーリーとして文化庁が認定するもの。
風情のある港町として、現在もさかんに漁がおこなわれています。
「諸寄港まち歩きマップ」によると、諸国から様々な人や産物が集まる事から諸寄(もろよせ)と呼ばれるようになったと言われているそうです。
諸寄港の片隅にある恵比寿神社周辺の海岸をみてみると、このような丸い穴をいくつか見つけることができます。
これらは、北前船が安全に停泊するためにをつなぎとめていた杭の跡で、いろいろな形のものがみられ日本遺産の構成文化財となっています。
日本遺産の構成文化財のひとつである「為世永神社」は、急こう配の石段(112段)を上がった先にあります。
毎年7月に行われる神社の例祭も構成文化財となっています。
階段を登った境内には、北前船で運ばれてきた出雲石で造られている全国の船主たちが寄進した石灯籠や狛犬などがあります。
こちらの石灯籠には「明治十八年六月吉日」「越後直江津 信濃増五郎」と記載されており、北前船の航行がさかんだった江戸期、明治期に現在の新潟県上越市近辺と交流があったことがわかります。
その他の灯籠や狛犬、玉垣などにも、全国各地の地域名が記載されており、幅広い交流が行われていたことがわかります。
北前船航行時に営まれた廻船問屋のいくつかが構成文化財となっています。
これらの廻船問屋は、北前船により財をなし、地域の伝統文化などに財政支援を行っていました。
写真は、「東藤田」の屋号で知られた旧廻船問屋の邸宅で、現在はゲストハウスや多目的施設としてリフォームされています。
また、諸寄には明治期に活躍した教育者や歌人、日本画家などを輩出しており、顕彰する石碑がみられます。
北前船によってもたらされた文化が影響していたことが考えられます。
この石碑は、聖人と呼ばれた社会教育家の篠原無然(1889-1924)生誕の顕彰碑です。
諸寄駅のほど近くにある「諸谷山龍満寺」も日本遺産の構成文化財となっています。
曹洞宗のお寺で代々高僧を輩出する「馬北(但馬北部)の鬼道場」として全国的に知られています。
江戸期の文政3(1820)年に難破した北前船の船員の供養をおこなった記録が残っているとのことです。
明治中期以降全国に鉄道網が整備されたことにより北前船はその役割を終えることとなりました。
諸寄駅は、昭和6(1931)年に久邇宮が避暑に来られた際に仮設駅として建設され、昭和16(1941)年に一般駅に昇格しました。
今回ご紹介した場所以外にも、日本遺産の構成文化財はまだ多くあり、みどころも沢山あります。
浜坂先人記念館や公共施設などで、「諸寄港まち歩きマップ」が配布されていますので、この機会に散策してみるのはいかがでしょうか
(参考資料)
諸寄港まち歩きマップ(発行:新温泉町北前船日本遺産活用推進協議会設立会)
平成30年度新温泉町「諸寄港」日本遺産認定記念第1回「北前船寄港地・諸寄講座」資料