北近畿豊岡自動車道を降りて国道312号線で豊岡の市街地に入ってくると、塩津郵便局前から京口橋を渡って城南町へ入ってくる。
城南町に入ったところの一本東側を南北に通っている細い生活道路、文章での説明ではわかりにくいかもしれないが、城南町と大磯町の境界線となっている「塩釜西通り」である。塩釜というのは塩釜神社に由来する。
「ぶらり 豊岡の城下町 豊岡城下町編」(豊岡市歴史文化遺産活用活性化事業実行委員会、2012年発行)によると、この南北方向の通りの位置は基本的に江戸期の姿がそのまま残っている。
元禄15年の豊岡城下絵図を見ると、京口の渡し(当時は城下防御の観点から円山川に橋を架けていない。)から幹線道側に町屋が並び、背中合わせに塩釜西通り側に侍屋敷が並んでいたようだ。
そして、現在でも塩釜西通りの城南町側には昔ながらの玄武岩などで作られた石垣がたくさん残っている。
つまりこの石垣は江戸時代からのものがそのまま残っている可能性が十分に考えられる。
また、町屋と侍屋敷との境界には深い溝(水路)が構築されており、これも玄武岩で組まれている。今でも路地の隙間から見ることができるし、新築工事などが行われると確認しやすくなる。この辺りは貴重な文化財だと思う。
豊岡の城下町は、乱暴に言うと豊岡盆地の低湿地を埋め立てて、これ以上のものは無いと言っても良い天然建設資材である玄武洞の柱状節理、つまり玄武岩を円山川の水運で簡易に運搬し、効率的に石垣を構築し築き上げてきたと言えるのではないだろうか。玄武洞と円山川という立地が大きな影響を与えている。余談になるが、昔ながらの石垣の高さの敷地は大水が出ても水没しない。つまり、台風などの水害時でも家屋は浸水しない。具体的に言うと昔から人が住んでいる場所は平成16年の台風23号の時でも床上浸水しなかったのであるが、私の住んでいるような戦後に開発されたような新しい住宅地の多くは床上浸水してしまったのである。
今でも豊岡市街地の中でも古い街並みの中に玄武岩の石垣を見ることができる。市立図書館や豊岡小学校周辺はそれなりに目につきやすいが、城南町と大磯町の境を通る塩釜西通りの石垣も江戸時代の面影を今に残す貴重な遺産かもしれない。