令和元年、春のふるさと特派員例会で、朝来市生野町の口銀谷区を訪れました。
出発地点は、生野まちづくり工房 井筒屋です。
生野は、江戸時代、旅人の宿泊が禁止されていましたが、仕事や公務など訪れる方が泊まる宿「郷宿」が六軒あったとされ、この井筒屋の建物もその一つであったとのことです。。
平成14(2003)年に銀谷町の新しいまちづくりの場としてよみがえりました。
ご案内いただくのは、生野まちづくり工房「井筒屋」の立ち上げから関わっておられる中井さんです。
中井さんは「口銀谷は、ひなまつりやわらべ、七夕など、井筒屋が拠点となって地域全体でまちづくりイベントを行っている。女性の方がアイディアをだしたり、気配りをしていることが原動力となっている。」とまちづくりに女性の力がかかせないと力説されました。
こちらの建物は江戸時代に郷宿と掛屋を兼務した町屋で国登録の文化財となっています。
口銀谷地区にはこのような歴史のある建物に少し歩けばいくつも出会うことができます。
生野小学校のグラウンドに隣接する公園には、ひときわ目立つ大きな石碑があります。
この石碑は、文久3(1863)年10月の生野義挙(生野の変)を後世に伝えるために昭和15(1940)年に建立されました。
【生野義挙】
勤王の志士と但馬の農民が一緒になって生野代官所を占拠した事件。
僅三日で破陣となりましたが、明治維新のさきがけとなったできごとの一つとも伝えられています。
旧和田山警察署生野分署で、明治19(1889)年に地元の大工が異人館をまねて建てた左右対称の擬洋風建築です。
現在は、市の指定文化財となっており、生野地域の公民館として使用されています。
建物の上部の紋章には、「イ」が九つと、「ノ」が一つモチーフにされており「イク(九)ノ」を表しています。
これは生野町の旧町章だそうです。
口銀谷の北側には、8つの異なる宗派の寺が連なっている寺町通りがあります。
鉱山で働いていた作業員が全国各地から訪れていたことや、劣悪な作業環境から多くが短命であったことから、いろいろな宗派のお寺が生野に必要だったということです。
寺町通にある8つのお寺の内のひとつ金蔵寺です。
金蔵寺には、鎌倉時代に製造されたとされる釣り鐘が残っています。
重要文化財に指定されており、第二次世界大戦の際に拠出を逃れたとのことです。
生野の街をあるくと、少し黒ずんだブロックのようなもので石垣などが作られているのを見ることができます。
これらは、カラミ石と呼ばれ、鉱石を加工する際に、銀や銅などの成分を取り除いた残りの部分を固めたものだそうです。
江戸時代は、これらは川などに破棄されていましたが、捨てる場所がなくなったため明治時代になると石材として販売されるようになったとのことです。
まちあるき案内の中井さんによると「明治時代の資源リサイクル、1ブロックあたり100kgあり非常に重い」。
現在では生野の独特な町並みを特徴づける存在となっています。
姫宮神社に続く姫宮橋から市川を眺めると、川沿いにトロッコの線路を見ることができます。
これは、鉱石輸送のために大正9(1920)年に建設されたもので飛躍的に運送高率を高めたとのことです。
市川の流れとトロッコ道があいまって、風情のある景観を作り出しています。
トロッコ道が敷設されている石垣は、かつての生野の平城から転用されているものあるそうで、アーチ構造は、日本の近代化の構造物としての価値が評価されているとのことです。
中井さんによると「なぜアーチが必要だったかはわかっていない」とのことです。
今回は、1時間と少しのまちあるきでしたが、中井さんの案内もあり
生野のまちの裏側が少し垣間見れたような気がします。
ただ生野のまちには今回紹介した以外にもまだまだたくさん見所があり何度も訪れたい場所だと感じました。
まちあるきガイドは「生野まちづくり工房 井筒屋」でお願いすることができます。
ふるさと特派員の例会は、このあと同町の黒川へ移動しますが、その模様はまた後日投稿させていただきます!
(参考)口銀谷時空旅散策絵図